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ニューパラダイムシフト2
~すべてのことが 次へ つながるための 過程~
【「主義」とは】
2025年4月の段階で世界は大きく分けて二つ、米国経済圏と中国社会圏とに分かれています。米国経済圏は米国を中心として、日本、ドイツ、イギリス、フランス、カナダ、韓国、台湾と他EU各国などの先進国と言われる先進技術を保有する国々がそれに該当します。一方中国社会圏は中国、ロシア、ブラジル、インドネシアが中心となり、東南アジア、中東各国、南米各国、アフリカ各国などが協力関係を築いているところです。インド、トルコ、サウジアラビアなどは中立的な立場と言ったところでしょうか。
米国経済圏の人々は「資本主義」を基礎として、自由経済を行い生活をしています。反して中国社会圏の人々は資本競争を取り入れながらも「社会主義」を基礎として過ごしています。
「資本主義」や「社会主義」以外にも、「民主主義」や「共産主義」という言葉もよく聞きますが、それでは「主義」とはいったい何を差しているのでしょうか?
主義とは文字通り、「主に(最も)義し(良し)とすること」を意味します。
民主主義であれば、「民が主権を持つ」ことが最も尊重されることとなりますし、共産主義であれば「産み出したものを共有する」ことを最も良しとするということです。それでは「資本主義」の「資本」を最も良しとするということはどういうことなのかを考えてみましょう。
現実の資本主義を基礎とする国々の活動を見ていくと、正しくは「資本増加=利益産出主義」と言えると思います。これは「資本を増やすこと=利益を出すことが最も正しい」という考えです。これは米国経済圏だけではなく、世界の半数以上では増やすことが「善」で、減らすことが「悪」という社会になっています。個人の貯蓄に関しても同様の考えがあります。米国経済圏ではこの「資本増加主義」に「自由競争の経済」が加わります。自由な経済競争が経済発展につながるという考えです。はたまた、これに反して中国社会圏は「進歩は人類で共有する」という「共産」的な発想が根強く残っている部分があり人類で共有することで社会が発展するという考えです。根本的にはこの「増やすことが善」という考えと「進歩は人類で共有する」というイデオロギーの違いで米中はぶつかっているように私には見えます。
とても重要な点は、上述を見返してみるとどちらも「人々の生活向上」という【目的】のためであり、「自由競争の経済」も「進歩の共有」もどちらも【手段】の一つに他なりません。
目的に向かってお互いが手を取り、どちらかの手段を選ばなければならない場合に、多少意見がぶつかることもあるため話し合いをして決めたりしますが、米国は自分たちの利益を出すために技術を盗まれまいと考え、中国は模倣した技術を安価な製品として市場に広げることで自分たちの利益産出を目論みます。それぞれが各々の手段を用いて同じ「人々の生活向上」という目的に向かっていたにも関わらず、「利益を産出すること」が【目的】と化してしまい、競争が段々と激しさを増し、「自分たちが良ければよい」という考えにねじまがり、利益を損ねることに対して激しい争いの感情が芽生えることにつながります。
日本では、以前テレビなどで米国でも中国でも現実の一般大衆の社会を放映することがありましたが、めっきり見る機会が少なくなり、実際に現地に行き体験しないと分からなくなりました。実際に両国に行ってみると、日本の社会とそこまで変わらない気がします。どの国も資本増加主義と自由競争の経済を実感しながらも、行き過ぎた競争社会に疲弊している様子が見受けられます。それは特に子供たちの表情や行動で気が付くことが出来ます。
日本は世界でも最も自由に事業活動が可能な国であり、何か新しい製品を販売しようと考えたときに、特にEUのような強い規制はありません。そのような自由競争経済の社会の中、資本増加主義は年々エスカレートしていて経済発展を目的とすることが最も良いことと多くの人が考え、これにブレーキをかける力はまだそこまで働いていませんが、温暖化や食料の問題、子供たちの自殺率の増加などを考えると早々に見直さなければならない時期に来ていると思います。
社会課題を解決するという旗を上げて活動を行う機関が最近になり非常に増えました。しかしながら、これらのほとんどがうわべだけで、本来の解決を目的としておらず利益を上げることを目的としています。欧米式の理論では「利益がでていることは世の中の役に立っているから」という根本の教えがあるかと思いますが、果たして現在の社会ではそれが成り立っていないことがだいぶ明らかになってきたように私には見えます。社会課題を解決することは、「利益の継続性」に反します。病気を治したら患者はその後病院に来ません。壊れない装置や設備を作ったらその後売れません。利益を継続させるためには課題を継続させる必要があります。
東京湾をはじめ、国内の都市付近にある湾の表層水を浄化するというプロジェクトがよく話に上がります。赤潮や青潮が発生し漁業や養殖業に影響を与えるためなので必要なことではありますが、この解決手段として表層水を濾す(ろ過する)などを掲げることがあります。赤潮や青潮の原因は河川から富栄養分が流れすぎること、またそれを栄養にする魚介類(あさり、牡蠣など)の生息域が少なくなったためであり、主原因としての河川の汚れを改善しないと解決しないにもかかわらず、本来の原因をとりのぞかずに対処療法とすることで利益を継続的に上げようとします。汚れた水が流れ続けている水たまりの水を一生懸命きれいにしてもいつまでたっても汚れは無くなりません。逆にきれいな水が流れてくれば自然ときれいな水たまりになるのは当たり前のことです。
多くの産業、多くの業界において、あるときは知識不足からの不本意な結果であったり、あるときは故意であったり、いずれかの原因や理由で人々に対する落とし穴が生まれます。例えばそれは病気になることであったり、経済的に損をすることであったりします。多くの人に落とし穴があることを伝えても情報が交錯していたり、今までの固定観念から落とし穴なんか空いていないよね、と言って進んで行きいつの日か落ちます。落ちたところを見計らって群がる人たちがいて、助けてあげるからロープと梯子とどちらが良いか?と聞いてきます。そして「ロープならxxx円払って」、「梯子なら更にxxxx円払って」と提案してきます。助けられた人はお金を払ったとしても助けてくれた人に感謝をします。誰が落とし穴を掘ったかは分かりません。もしかしたら梯子を差し出したその人かもしれません。加えて、一度はい出られても落とし穴は無数に存在しますので、一度落ちた人は再び他の穴に落ちて、また助けを求めることになります。このように、根本的な原因である穴が空いているから落ちないようにと気づかせようとする行為は、お金にもならず感謝もされず評価されないことばかりが世の中で増え続け、対処療法的な穴から落ちたところをお金をもらって助ける人たちが評価をされて裕福になるという現実が少なからず存在します。特に医療や環境などの自然科学に関わる企業は、それ自身の原理が複雑多岐であること、また最近では実経験がない比較的若手の人たちが事業を立ち上げることが多いことなどから全世界的に勘違いだらけになっています。加えて投資に携わる人たちは数年で投資金額を数倍に増やさなければならないという背景から、すぐに利益が上がるように見える落とし穴から助ける会社ばかりに投資を行うため本来の課題を解決しないことを助長します。
国の機関である経済産業省も同じ状況に陥っています。社会課題解決と経済発展を両立させるということは既に矛盾するため、どちらにも貢献できていない状況が数十年続いています。戦後から1960年代、日本は高度経済成長と呼ばれる経済発展を経験しましたが、日本ほどでは無くても先進国はすべて同様に経済発展を経験しました。この頃は、経済発展と社会課題の解決が両立していた時代でした。しかしながら現在は、エネルギー関連事業、ライフサイエンス関連事業、IT関連事業、半導体デバイス関連事業、新規材料事業、更に具体的には国産航空機の事業やiPS細胞の事業も投資以上の効果は出ていませんし、これからも出ることはありえません。事業に関わった企業は自己負担や事業後の処理で大きく疲弊し、更なる投資が出来ずに終わるという負のスパイラルが続いています。役人の人たちも成功を前提にすることが出来ないため疲弊していき、成功が無いことが更に企業の評価を落とし、更なる負担や手間を増やす方向に進みます。あらゆる省庁で同様のことが起きており解体と再編が必要ですが、それには人々の価値観の変更も必要になります。経済産業省で消費している予算と役人を「社会課題解決省」を作り、これに投じれば、多くの成功につながるはずです。また今後は経済発展よりも産業の維持や改善が重要となるため「産業維持改善省」も新たに作り予算と役人を投じるべきです。役人の人たちにとって今より遥かにやりがいのある仕事となることが期待できると思います。
今まで挙げた話は、すべて資本増加主義=利益産出主義の弊害です。この弊害はこの後、更に急速に増強する可能性があります。
なぜなら、お金の母数を増やす機会が無くなってきているからです。建前だけは双方の利益が大事と言いながら、本音では自分たちの利益が一番大事という考えがはびこり、最終的には全てが共存できない結果につながります。強くて大きい者が奪い過ぎれば、弱くて小さい者には回ってきません。その強くて大きい者だけが残った世界は、結局奪うものが無くなり、自分だけではそれを作り出せず、自滅していくのが自然や社会の常識です。
世の中は自然界でも社会でも、それぞれがそれぞれの役割を持って様々なものを作り出し、共有し合っています。都会の便利な暮らしに慣れてしまった現代はこのことに気が付かず過ごしてしまっています。一度、自然の中から自分一人で何を作り出せるかを考えてみるべきです。食事、排泄、住居、衣服、水、火など、本当に何も物が無い状況を想像した時に、どれだけ他の人から様々な物を享受しているかを感じてみる必要があります。
資本増加主義の弊害の中に「文化の崩壊」と「産業の崩壊」があります。特に自由競争経済に貿易が関わってくると、それまで各国の文化的特徴だったものが崩壊していきます。最近の分かりやすい例で言えば、「コメ」のことが挙げられます。日本で2000年以上に渡って培われ育み、日本らしさのすべての土台となっていた「稲作」が近い将来崩壊する可能性があります。「稲作」は重要な文化であり農業という産業の中でも核となるものですが、従事者の高齢化(70%以上が70歳以上)、肥料や機械類のコスト高、コメ以外の食料品の増加や海外からの安い輸入品との競争による販売不振から、低価格化などを要因として継続性が失われています。「稲作」が崩壊することは日本の風景が日本では無くなることを意味します。 日本人であればすずめの声で目を覚まし、蛙の鳴き声でまどろみ眠りにつくことが当たり前でしたが、都会ではどちらも聞けなくなってきました。生米を撒くと積極的に食べる鳥はすずめくらいで、ひよどりやカラスも少しはついばみますが、身体が遥かに小さいすずめほどは食べません。1羽が30秒のあいだに50粒ほどついばみますが、恐らく自分で食べているのではなく家に帰って子供にでもあげているのでしょう。すずめにはお米が必要だということが分かります。また、両生類は豊富な水がある場所に生息しますが、温暖化の影響もあり世界的に生息域が狭まりつつあります。蛙は比較的餌を選り好みしませんがそれでも水生昆虫やバッタなどが多い水辺に生息し、特に日本の場合は田んぼが多くの蛙の住処でした。夏は豊富に餌が存在し、冬は田んぼの柔らかい土手に穴を掘りその中で冬眠をするという生活を行っていました。初夏にはつばめが田んぼの土と稲わらの欠片で巣作りを行い子育てをすることも田んぼがあることで成り立つことでした。このような日本らしさの象徴は数多くある事象のうちのほんの一部で、これら以外の様々なことも日本から無くなり、二度と取り戻せなくなる可能性があることを意味します。このような「文化の崩壊」や「産業の崩壊」を回避する手段の一つが、実を言うと、現在多くの人が問題視している「関税」です。
そもそも貿易は黒字すぎても赤字すぎても良くありません。黒字ということは海外の資産を奪っているということですし、赤字だと国の資産を海外に奪われているということになります。そこまで裕福ではない国が、iPhoneやベンツを大量購入すれば、資源や食料を海外から調達できなくなり国が傾きます。その国が裕福か裕福で無いかの指標として最も関係のある指標は「対外純資産」になります。これは国内で保有したり回っているお金とは別に、海外にあり海外で使用できる資産のことで、言い換えれば「国の貯金」のようなもので、これは国の経常利益により増加します。最近になり財務省や日銀への風当たりが強いように見えますが、財務省と日銀は自分たちが大きな結果を出していると考えていると思います。なぜなら日本は長年にわたりこの対外純資産を増やし続け2023年の段階で世界一だからです(3兆3200億ドル=471兆円:142円/ドル2023年12月レート換算)。これを積極的に公表しない理由は日本がこれを増やすことを最大の目的にしていることを海外に知られたくないからです。具体的には外国債や株式への投資、日本国債発行、利率のコントロールによりこれらを実現しています。このように儲ける方法や儲かっていることを口外しづらい環境というのも社会には存在し、上述のように国家機関や政府へ風当たりが強くなるという弊害を及ぼしています。自分たちが成功していると考えているにも関わらず、よく分かっていない人に批判されて、それでもその人の生活を良くしたいと動くことができますでしょうか?
話は貿易に戻しますが上述のとおり、国の発展に寄与しない可能性が高い贅沢品を購入し続ければ国が傾きますし、その国の発展や文化と産業の維持に関わる材料を適正な価格で調達できれば、良い方向に向かいます。海外の高級時計や高級車を購入するよりも、国産品を購入するほうが国内の産業や文化にとって良い方向に向かうことは少し考えれば分かりそうなものですが、そうならない理由に「販売・サービス業の興隆」も大きく関わってきます。基本的に日本のように産業構造が幅広く市場が活発な国においては、製造するより販売やサービスに徹するほうが利益が簡単に上がります。理由は設備投資の必要が無く、材料を調達する必要が無く、在庫を持たず、サービスもメーカーに任せられることが多いからです。特に海外メーカーで既に実績がある物を輸入して販売し利益を上げることは、他の事業に比べて利益は上げやすいです。高度経済成長期の時代から日本やドイツにおいて様々なメーカーの研究開発分野では、特に米国の最先端の設備を他国よりも先に導入し、分析や計測を行い精度の高い最終製品を製造することで他国に比べて質の良い物を供給することが可能となっていました。現在では中国を始めその他の国も購買力が上がり、先んじて研究開発分野に導入するという有意差を出すことが出来なくなり、日本もドイツも製品の優位性が低くなってきています。これはアカデミアの研究分野でも同じです。最新の装置でデータを出せば論文がかける時代では無くなりました。以前の成功パターンが通じなくなっているのですが、特にそれで成功してきた上層部の頭の中を切り替えるのはいつの時代も困難です。
繰り返しになりますが、特に高額な海外メーカーの物品やサービスばかりを導入すると小さなコミュニティの利益にしかならず、産業構造では裾野(下請け)に負担がかかります。ある大企業が自社の技術のように謳っていても、それらを支える様々な部品の技術は下請けの技術が複雑に絡み合って成したものです。最近は大企業が生産効率が良く、中小企業は生産効率が悪いという話もよく聞きますが、これは大企業や公的機関がきちんと中小企業に対価を払っていないだけのことです。ひと昔前は現在ほど材料が揃っておらず、インターネットも普及していなかったため、大企業が下請けにきちんと研究開発費を支払い育てていく習慣がありました。現在は、様々な物品をインターネットで調べれば簡単に入手できるため、特殊な研究開発が必要な物品であっても、一つのモノとして認識されてしまい、製造を成功させるためにそこに投資した研究開発費(人件費、材料費、管理費、光熱費)については全く念頭に入れられません。大企業の株主やコンサルティングはその会社が利益を上げることを一番に考えますので、仕入コストは安ければ安いほど良いという発想になり、それは役員を通じて社員に浸透します。そのようにして中小企業から搾取した利益を、既に不必要なほどお金があるところに更に上乗せしようとします。それでもこのような活動は市場拡大期であればそこまで問題にはなりませんが、景気後退に近づくにつれて1次産業や製造業の利益を圧迫し投資を減少させ疲弊させて、最終的にはお金に囚われている自分たちの首を自分たちで締め付けます。「関税」にはそのようになることを回避しGDPを維持する効果もあります。
そしてこのような中小企業の研究開発費や人件費の多くはこれら企業が上げた利益からではなく、借金という名の「信用創造」によって生まれています。住宅ローンも「信用創造」です。誰かから借りたわけではありません。その時に創られたお金なのです。分かりやすく言えば「保証協会」が絡む融資はその大半のお金が「信用創造」となります。
新型コロナ対策の特別融資(数年返済据え置き、金利ゼロ円など)について返済できず倒産した企業を攻める風潮も若干見受けたりしますが、このような中小企業への融資で世の中のマネーが増加し大企業も利益を増やすことが可能となり、金利や株式投資で食べていくことも可能になるという実情はあまり知られていません。これは経済をより良くするために本質的に重要な部分となるため、きちんとみんなで理解を共有する必要があります。これからは「借金」と「信用創造」という言葉をきちんと切り分けるべきです。
現在の先進国に基本的な考えとしてある、自由競争の重要性を掲げるときに真っ先に言われる理論に、「共産主義のようにすべての対価をすべての人で共有すると頑張った人が評価されず損をする」「そのため頑張る人がいなくなる」という批判があります。現在の先進国を見てみると、頑張って肉体労働している人ほど収入が少なく社会で評価されず、株式投資などで労せず莫大な利益を上げる人が評価されるという現実があります。まさに頑張っている人が評価されず収入が得られないという自由競争を唱える人が嫌悪する社会が存在します。中年よりも子供たちや青年世代は遥かにこのような社会を感受しており、働かないでも良いという考えや楽して稼ぐ方向に向かっています。若年層の生活保護受給者の割合はどこの国でも増加している現状があります。実情は自由主義を唱える人たちが嫌悪する「頑張った人が評価されず損をする」といった社会に向けて加速しています。
休耕田にいる数百匹近くのカエルが草むらに逃げていくところ
休耕田に生えるヒメシバと餌となるとんぼを取る無数のツバメ
田んぼは農薬で毒されていて、田んぼの間にある休耕田に生物が集まる。周りにたくさんある田んぼの上ではツバメが飛んでいない。
そのような中、「民主主義」という言葉もよく出てきます。それでは民主主義とは何か?と質問を返すと漠然とした答えが返ってくるか、もしくは返ってこないことが多いです。民主主義の本質は、「民衆が多数決で決める」ということと、「決定する工程が面倒」ということだと私は思います。何か一つの事柄を決めなければいけない場合に、意見やアイデアを出し合い、民衆はその意見をきちんと理解し、どれが一番良いかを多数決で決めます。そこで一番多くの賛同を得た意見が決定事として、生活に反映されます。現在のように都会に多くの人たちが集まる中で、多くの決めごとが出たときに、このような工程を踏んで決定するのは非常に面倒です。それゆえに、本当の民主主義は少人数の集団でしか実現することができません。現在、民主的な政治を行っているといわれる国は、選挙で代表となる政治家を選び出し、そこに決定権を一任するという工程を行っています。しかしながらどの国においても、決定権を一任された政治家が自分の主張を貫くことができない環境となっています。日本を例に挙げると、ほとんどの政治家が政党や派閥に所属し、それら政党や派閥の考えと異なる意見に賛同する投票を行うと、「造反」と言われます。場合によっては離党を迫られ、その後の政治家活動や選挙活動に影響が出ることがほとんどです。このような圧力がかかる決定方法は民主主義ではありません。日本が他国に先駆けて政党や派閥などを無くし、決定事項はきちんと個々の代表が案を出し合い、考え、そして多数決投票を行い、代表個人の決心において投票を行うほうが、より健全な民主的政治に近づきます。
また、国民にとって大事な決定事項は、もう少し積極的に直接投票を行うほうが良いかもしれません。例えば消費税をこのまま継続するのか、一旦税率を下げるのか、廃止にするのか、国民が年に1回くらいは参加をして決定を行い、その後その決定がどのような効果をもたらしたかなどを検証し、もし想像していなかった悪影響が生じたらすぐに戻すなどの柔軟性も持たせられると良いです。そのようなことを年々重ねていくうちに、現代社会では非常に多い政治家や役人への批判も少なくなっていくと考えられます。自分が社会の課題と思っていることに対して何か解決策が思いついたとして、それが実行されているかを省庁のサイトなどで調べてみると、ほとんどそれらは実行されていることに気が付きます。少なくとも日本の政治家や役人は何とか世の中を良くしようと考え、いつも懸命に活動をしています。それでありながら、大衆は全体を見えていない場合が多く、一部分しか見えていないため批判を行うことがあります。また、上述のとおり、都会に人が多く集まることで決定しなければならないことも増加すると、100個の決め事のうち1個でも自分の考えと異なると、それだけで批判が起こります。99個良いことを行っても1個悪いと思う事があるだけで批判の対象になります。そのようにして批判が増えると必ずといって良いほど悪いスパイラルにつながります。能力のある人がそのような仕事や場所に集まらなくなるためです。これは政治の世界だけにとどまりません。
マスメディアは批判が増える記事にはアクセスが増えることを知っているため、積極的にスクープを探します。あるいはでっちあげることもあります。それも利益算出主義から生まれる物です。それに大衆は乗っかり、SNSを使って大勢でスクープの対象を責め立てます。マスメディアは「お金を稼がないと生きていけない」「食べていくためにやらなければいけない」、と言って正当化して他人を貶めたり、奪ったりします。このような「~でなければいけない」を、親も学校も子供たちに言いますが、子供たちにとって最も受け入れられない言葉の一つです。子供の心は直感的にそれがあまり良くないということを理解しているのかもしれません。結局のところ、そのような正当化の究極が戦争や侵略につながるからです。
戦争を見ていると、戦争こそバーチャルにすれば良いのにと思います。現実世界で血を流して命を落とすことの馬鹿さ加減とその損失は大きく想像を超えています。大人が命を落とせば過去に築いた知識と経験の記憶が消え、子供が命を落とせばその将来に起こしていたはずの未来が無くなります。もしバーチャルで戦争をするならば、各国は代表の子供たちを数千人出して、ゲームの中で戦います。その結果に応じて、敗者は勝者に何を差しだすかを事前に決めておきます。制限時間を決めて戦いを行い、例え自国の子供たちが負けたとしても、特に代表に選ばれた子供たちを匿名にして、かつ責めることが無いよう法律で決めておきます。一度やってみたら分かると思います。結局、現実でもゲームであっても争うという事がばかばかしいという事を。そうやって奪い合う前に与え合い譲り合うことが大事だという世界のほうが遥かに暮らしやすいのです。
「奪う」ことと、「与える」ことは、誰かから誰かに物やお金が移ることで「結果」としては全く同じです。違うのは、その過程や感情です。みんなは「奪う」と気持ち良いのでしょうか?はたまた「奪われて」も意に介さないのでしょうか?奪い合えば世の中に負の感情が増え、与え合えば正の感情が増えると私は思います。
これに加えて、余分にあるところや要らないものを奪われても、そこまで怒りは起こりませんが、自分が本当に必要な物を奪われれば怒りは収まらないでしょう。また、満たされているときに何かを与えられてもそこまで嬉しくはありませんが、本当に不足しているときに与えられるととても嬉しいことでしょう。このように、正の感情を世の中に増やしていくには、「不足」しているところに、「要求に応じて必要なだけ」与えることが重要と考えます。これを一旦私は【不足要応】と名付けます。本当に必要なところに必要なだけ食料をはじめ、物やお金が回る。必要以上に欲しない。これが出来れば争いは大きく減り、世の中に正の感情が増える事でしょう。